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良かれと思われることがつらい

「あなたのアトピー治療に役立つかもしれないから」
と、高校の担任が娘にメモを渡したそうです。

メモには病院の連絡先と〇〇療法の概略が書いてありました。

「それで…」とお母さんは言葉を区切りため息をつきました。

少しずつ話してくれたのは、翌日から娘さんが家族と話をしなくなり、学校を休んで2週間たつということでした。

「その後、担任と保護者で話をしましたか」「お父さんや兄弟は娘さんに対してどんな風に接していますか」

私たちからの問いかけにお母さんがこたえてくださったので、娘さんを取り巻くたくさんの人たちの様子も少しわかってきました。

「周りの人がみんな苛立っている中で、お母さんは2週間もよくこらえて娘さんを待ちましたね」とお伝えすると、長い長い沈黙の後に「本当は全然待てなくて、最初のうちは娘を攻め立てていました。でも何も話してくれないし、頑として学校に行かないし、どうしたらいいのかわからなくて、ただ黙ってご飯だけ食べさせてる感じで…」と辛い気持ちを話してくれました。

家族の皆さんにとってはつらい時間だったと思いますが、娘さんにとっては必要な時間だったのだろうと思います。
もしかしたらまだ足りないのかもしれません。

そういえば筆者も、子どもが小さかった頃は顔や手足のくびれたところにアトピー性皮膚炎があって、親子でエレベーターやバスに乗っていると「あらあらかわいそうに。早く治してあげないと」と年配の女性に話しかけられたり、知らない男性から宗教にすがるように説得されたりして、乗り物の中の逃げられない状況で話しかけられることが苦痛だったことを思い出しました。

筆者はそれに「良かれと思う暴力」という名前を付けていました。

思うように治療が進まない時、頑張っても頑張っても解決しない時、この治療を続けていていいのかなと不安になっているときに、関係のない人から、不意に「治すこと」を働きかけられるのは「治らねばならない」ことを強要されているような感じがしたのだと思います。

アトピー性皮膚炎の肌がその人の目にひっかかってしまったのだろうと思うといたたまれませんでした。

学校という「学ぶ場」で、まわりには友達もいて本人の安心できる居場所だったかもしれない場所で、娘さんはきっと「不意打ち」の嫌な思いをしたのでしょう。

四六時中「治ること」や「アトピー性皮膚炎があること」を意識し続けるのはつらいことです。

それ以外のことに夢中になれる場所で治療の話を持ち出されることは、治療と関係ない場所が一つ減るということに他なりません。

これは皮膚炎がない人にとっては理解しづらいことなのかもしれません。

安全な場所を侵害されたり、不意打ちの押し付けを感じたり、触れられたくないことにズカズカと踏み込んでこられたら、それはどんなに「よかれ」と思ったところで、本人にとっては「暴力」でしかないのだということに、私たちは気づけるでしょうか?

娘さんは自分がどうして怒っているのか、悲しい気持ちでいっぱいなのか、説明できる言葉をみつけられていないのかもしれません。

「気持ちを伝えたくなった時に、いつでも聞くから、ずっと待っているからね」と、お母さんが娘さんに伝えられるといいなと思います。

周りの人はどうか苛立ちませんように。
彼女の心が開くまでどうか待っていられますように。